成長と共に感想が変わる「火垂るの墓」

4歳と14歳で、生きようと思った。でも…

「火垂るの墓」は野坂昭如さんの戦争体験を元にして書かれた小説です。高畑勲さんの監督・脚本でスタジオジブリによってアニメ化され、1988年に公開されました。

戦争で日本中が混乱していた時代、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が必死で生き抜こうとする物語は、きっと多くの方が涙したことでしょう。

※この記事にはアニメのネタバレを含みますので、これから観ようと思っていらっしゃる方はご了承の上、続きをお読みください。

14歳と言えば中学2年生でしょうか。この年齢で両親を失い、幼い妹を抱えて生きていくことはどれだけ大変なことだったでしょう…

清太は裕福な家庭に生まれ、戦争中でなければこんな苦労をしなくても良かったはず。そして、一生懸命生きようとした2人はどんどん追い詰められていきました。

にゃご
どうしてこんな子供2人が戦争の犠牲にならなければいけなかったんだろうな!

よっしー
これは決してお話じゃなく、実際に昔はたくさんの子供達が戦争に関連して命を失ったのよ。

西宮のおばさんは意地悪な女性でしょうか

小学高学年で初めて「火垂るの墓」を見た時は、清太や節子にきつく当たる西宮のおばさんを「意地悪なおばさん」「ひどい人」だと思って憤慨したものです。

でも…大人になって子供を持ってから改めて観ると、当時とは感想が違ってきたことに気が付きました。

西宮のおばさんは当初、2人を一時的に預かるだけのつもりだったかもしれませんが、2人の両親とも亡くなったことが分かりました。

自分の子に食べさせるだけで精いっぱいの時代、最初にちょっと梅干しやバターなどを持ってきただけの子供2人をずっと置いてやる余裕など、なかなか無いのが普通だと思いますよ。

それに、おばさんは言葉はキツいですが、言っていることは正論なんですよね…4歳の節子はしょうがないとしても、14歳の清太に対して「大きいんだからもっとやれることがあるでしょう」と言うのは当然の事かも。

部屋で節子と遊んでいておばさんからちょっとお説教を食らった時、清太はムッとした顔をして黙ってしまいました。

あの時「いつもご迷惑ばかりかけて本当にすみません、何か僕に出来ることがあれば手伝います」とでも言って頭を下げておけばよかったんでしょうけど、海軍大尉の息子で難しい年頃の清太にとって、簡単にそんなことは出来なかったのかも…

おばさんは「働かない者は食べる資格はない」みたいなことを言っていましたが、よく見ると、娘にはおにぎりのお弁当を作ってやっても自分は少量の雑炊で済ませていました。決して意地悪で言っていたのではなかったのだと思います。

お母さんの形見の着物を米に交換するとおばさんが言い出したときに、節子はいやだいやだと泣いていて可哀想でしたが…仕方がないことだったんじゃないでしょうか。

貯金を下ろすのが遅すぎたのか?

節子が栄養失調でどんどん体調が悪化していき、医師から「滋養のある物を食べさせるように」と言われた時、清太は「滋養なんて…どこにあるんですかっ!!」と叫びました。

しかしその後、母親が貯金してくれていたお金(かなりの大金)を下ろしてスイカ・鶏肉・卵などの食料をやっと買えたものの、すでに手遅れで節子はスイカを1切れ手に持ったまま亡くなってしまいました。

「あー…これだけお金があったのならもうちょっと早く引き出して食糧を買っておけば良かったのに」とついつい思ってしまうのですが、そう簡単には行かなかったようです。

当時は終戦直前で、今のようにお金を払えば普通に適正な価格で食糧を買うことが出来た時代ではなかったんですよね。

親切な農家のおじさんにお金で何か売ってもらおうとしたときも、ダメでした。あの時代、現金よりも食べ物のほうがずっと大事だったのではないでしょうか。

ちなみに、節子は栄養失調による衰弱で亡くなったとされていますが、実はそうではなくて雨に含まれていた有毒物質が原因で亡くなったのでは?とも言われているそうですね。確かに、普通なら成長期の清太のほうが先に栄養失調になりそうな気はします。

清太は何度か火事場泥棒をしてひとりだけ米を盗み食いしているシーンがあるので、節子の本当の死因については分かりませんが、どちらにしても4歳の子が長い間苦しみながら亡くなったのは本当に可哀想でたまりません。

全てがうまくかみ合うことのなかった悲劇

清太たちがおばさんの家を出て池のほとりの防空壕で生活に困っていた時、親切な農家のおじさんは「おばさんに謝ってあの家においてもらったほうがいい」とアドバイスしてくれました。

しかし、何かと小言を言う上に、隠していた母の死を節子に告げてしまったあのおばさんの家に戻る気にはどうしてもなれなかったのでしょうね。

おばさんのほうも、わが子を食べさせていくだけでも大変な時代に、さほど近い親戚でもない子を2人養わなければいけない上、清太はどうも可愛げがないと感じていたはず。

戦争中でなければ、あのおばさんだってあんなキツい接し方ではなかったでしょうに…不幸なことに、すべてが上手くかみ合わずに悲惨な結末になってしまいました。

当時の14歳の子は、今の14歳の子より大人びていてしっかりしていたかもしれません。しかしお母さんが亡くなり、戦争に行ったお父さんとも連絡が取れないままで幼い妹を抱えて何が出来たかと考えると…

清太の家は、かなり裕福な家庭だったはずです。お父さんは海軍大尉ですし、一年前?の回想で、当時高価だったカルピスを飲むというシーンがありました。

裕福な家で何不自由なく育った子供が、戦争で親を失い、生きていくために盗みをして本当に惨めな思いをしなければいけない状態に追い込まれました。

「あの時、清太はもっとこうしていれば良かったのに…」とつい思ってしまいますが、実際に自分が子供であの立場に立たされたとしたら、何がどれだけできたかわかりません。

ただ「戦争さえなければ…あの時、2人のお母さんが亡くなっていなければ…」とひたすら悲しくなるばかりです。

清太はなぜ亡くなったのでしょうか

亡くなった節子を荼毘に付した後、清太は三ノ宮駅構内で衰弱死してしまいました。その時に所持していたのは節子の遺骨が入ったドロップの缶だけ。

節子が亡くなったのは終戦の7日後の8月22日で、清太が亡くなったのはそのわずか1か月後でした。清太はなぜ亡くなってしまったのでしょうか?

清太の死因は栄養失調による衰弱死だろうと思われます。節子が亡くなる直前に母の預金を下ろして食糧を買い込みましたが、ほとんど食べないうちに節子は亡くなってしまいました…

終戦直後の混乱期とはいえ、そのお金はかなりの価値があったようですから、清太一人が食べていく当分の食料を確保しようと思えば何とか出来た可能性はあります。

また西宮のおばさんの家で清太が嫌味を言われながらも働かなかったのは、幼い妹の世話をしなければいけなかったからというのは分かります。

母も父もいなくなった4歳の節子にかまってやれるのは、兄である自分しかいないと思ったのでしょうね。

節子が亡くなって、14歳の男の子ひとり食べていくことはもしかしたら不可能ではなかったかもしれません。「はだしのゲン」でゲンたちは親や兄弟を亡くした後もたくましく生きていました。

母を亡くし、戦争に行った父もおそらく亡くなっており、可愛い妹さえ亡くしてひとりぼっちになってしまった清太は、すでに生きる希望を失くしてしまったのかもしれません…

「どんなにキツい仕事でも、頑張ります!なんでもやります!」と言って頑張れるのは、生きる希望がある人だけ。家族全員を亡くし、生きる希望を失ってしまった清太には、もうそんな気力は残っていなかったのではないでしょうか。

戦争は終わったが、本当に「平和」な世の中になったのか

アニメのラストシーン、2人の霊は現代の神戸の綺麗な夜景を眺めます。蛍のように短く儚く散ってしまった2人の命。

戦争は「生きたい」と願う多くの命を奪っただけではなく、生き延びることが出来た者の生きる希望さえも奪ってしまいました。2度と戦争を起こしてはいけないと思います、本当に…

現代の夜景は、かつて戦争でたくさんの命が失われた後に日本が復興したからこそ。蛍の儚く淡い光と違って、現代の夜景は明るくて華やかに見えます。

しかし、福祉に助けを求めることが出来ずに静かに亡くなっていく人は現在もいますし、いじめられても誰にも相談できずに一人で苦しんでいる子供達もいます…現代の夜景を眺めながら、2人は何を思ったでしょうか。

にゃご
戦争は本当に悲しいな。2度とこんなことがあってはいけないよ。

よっしー
子供達の笑顔が失われることがないように…本当に2度とこんなことが起きて欲しくないわね。